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前編ではゆる体操を理解するためには体で実感することが正攻法だというお話を実体験を交えて解説ししました。
そしてもう一つの道として、ゆる体操や身体意識を理解する正攻法以外の方法について説明を始めました。
正攻法ではないので、多少理に勝ちすぎる面もあると思います。しかし私自身がかつて、ゆる体操や身体意識を胡散臭いと感じていたからこそ書ける解説です。是非ご一読ください!
最初のキーワードは「夢」です。
夢と空振りから考える認識の共有
「夢をみる」という現象は多かれ少なかれご自身でも経験しているので複数の人の間で、もしくは社会的に共有されて言語化されています。
つまり多くの人が経験していることは、例え現象として不確実でも共通の認識として成立する場合があるわけです。
次にテニスのルールにある「空振り」について考えてみましょう。
(1)「空振りはフォールトである」という一文を考えてみよう。
「スポーツと記号」p428、高岡英夫著、恵雅堂出版、1986年
I. ラケットがトス空間に触れたにも拘らず、ボールに当たらなかった場合と考えられる。
このように空振りを捉えるとすると、テニスにおいてはトス空間が重要な要素であると認められていることになります。空振りがルールとして明文化されているということは、複数の人の間で空間に対して共通の認識を持てる証拠と考えられるのです。
言い方を換えれば、テニスをやる人たちにとってトス空間が重要な意味を持たなければ「空振り」として明文化されることはなかったということです。
空振りではトス空間という体外の空間を例に取りました。では同じ空間でも体の内側ではどうでしょうか?
正中線・丹田以外に身体に関係する意識はあるのか?
身体内の空間では、高岡英夫師が提唱した身体意識という考え方よりも前に正中線や丹田などの言葉がありました。
正中線も丹田も身体に関わる言葉ですが、体内に正中線や丹田に該当する解剖学的な構造物はありません。
言い方を換えれば、正中線や丹田は体内の空間を表現する言葉だということです。
空間を表現する言葉だという点ではテニスのトス空間と同じですが、正中線や丹田は体外ではなく身体に関係した言葉であるという点が異なっています。
そして、実体(解剖学的構造物)がないものをあるかのように感じられ、そしてその効果が実感された経験が積み重なって正中線も丹田も意味を持ってきたということです。だからこそ名前が与えられた(言語化された)と考えられます。
センターと丹田には共通することが3つあることに私は気がつきました。1つ目はセンターも丹田も、実態のごとく恒常的に存在していること。2つ目はその実体は一線や球状や点といった幾何学的な形をしていること。3つ目はそれらを見る目を持っている人には、他人のそれも見えるということでした。
そこで、その3つの条件を満たすものは何かを考えました。感じや感覚、イメージはその場限りのもので、恒常的には存在していません。
(中略)意識であれば、センターや丹田の恒常的に存在しているというあり方に応えられるのです。つまりセンターや丹田は、そもそもが潜在意識、無意識の世界に形成された意識の空間的構造体だと考えたのです。
「センター・体軸・正中線」p25-26、高岡英夫著、ベースボールマガジン社、2005年
つまりセンター(=正中線)や丹田はイメージや感覚ではなく意識だと考えられるということです。
では意味を持つ体表面や体内、すなわち身体に関係する意識というのは、正中線や丹田以外にもあるのでしょうか?
正直に言って、私はこの問いには答えられません。しかし高岡英夫師は正中線や丹田以外にも有効な身体に関係する意識はあると考えています。
そして高岡師は、これまで名前を与えられていなかったこのような身体に関係する意識に名前を付けていったのです。
前編で出てきたベストやパルト、他にもリバースやレーザーなどは、そのように高岡英夫師に名前を付けられた身体に関係する意識です。
しかしそのような「身体に関係する意識は、高岡英夫師が思い込みで名前をつけただけじゃないの?」という疑問が当然湧き上がってきます。
そこで著名な合気道家であった養神館合気道の塩田剛三師範と高岡英夫師の対談が重要な意味を持ってくるのです。
高岡英夫師だけが感じていたのか?
高岡英夫師が名付けたジンブレイドという脚を通る意識があります。高岡師が命名したということは、これまで名前がつけられなかった、つまり多くの人に認識されてこなかった意識であるということです。
そのような意識が高岡師以外の人に認識され得るのかどうかというのはとても重要な問題です。
そしてこの対談の中で塩田剛三師範は脚に意識のラインがあることを明確に示しています。
塩田 今先生に言われてました(原文ママ)ことを、合気道の場合を例に申し上げますと、膝ですね。膝の柔軟性。それから足は歩くときに足の親指、親指にぐっと力が入って下にいくという歩き方。
「極意要談」p27、高岡英夫著、BABジャパン、1995年
高岡 親指から着くんですね。
塩田 そして、きっちりとして動かないような親指。これを作るとそれがだんだんつながって、膝の内裏側でコントロールして、外に出て腰の裏につながるのです。(脚を指差しながら)
高岡 股関節の内側のところを通ってですね。やっぱりこういうラインがあるわけですね。
つまり歴史上、ジンブレイドを重要なラインだと認識し得た人間が、高岡英夫師以外に少なくとももう1人いたということです。それも十分すぎるネームバリューを持った塩田剛三師範です。
ジンブレイドの重要性を認識した人が同じ時代にもし50人100人といたら、高岡英夫師が命名するまでもなく正中線や丹田のように言語化されていたかも知れません。
しかしそのような言語化の事実はありません。
つまりジンブレイドという脚を通る意識は有効であり重要ではありますが、おそらく自覚できた人数が少ないのと、自覚できても後進に伝えなかったこともあり言語化されることがなかったのでしょう。
このジンブレイドの事実から次のことが読み取れます。
総称としての身体意識という考え方
それは高岡英夫師が公表しているジンブレイド以外のベスト、レーザー、リバースなどの身体に関係する意識も自覚している人間が少ないだけで存在している可能性があるということです。
少なくともその可能性については否定しづらくなってしまったわけです。
そして、ここに来てもう一つ問題が見えてきます。それはこれらの意識や正中線・丹田も含めた総称がないことです。
例えば「蜜柑や林檎、柿やイチゴの総称は?」と訊かれれば果物と答えることができるでしょう。
では先程の正中線や丹田、ジンブレイドやベスト、レーザ、リバースの総称は?
それが体性感覚的意識であり略称身体意識です。
もちろんこれまで言語化されてこなかった概念なので、この体性感覚的意識も身体意識も高岡英夫師の命名です。
体性感覚的意識、すなわち身体意識については以下の説明が比較的分かりやすいと思います。
人体には骨、内臓、筋肉、血液、循環器系、神経系といったものがあり、さらには個々の細胞まで含めると非常に複雑な運動が行われているんですね。そうした運動によって生ずる物性、圧力や張力や粘性といったものを身体に存在する受容器が感じ取り、その感覚を脳で処理することによって意識は生まれるんです。
この感覚を「体性感覚」といいます。そしてこの「体性感覚」によって得られる意識が「体性感覚的意識」、略して「身体意識」というわけです。
「スーパースター その極意のメカニズム」p16-17、高岡英夫著、総合法令出版、2001年
この体性感覚的意識があるからこそ人は空間を認知することができると考えられます。「体性感覚的意識ではなく体性感覚ではダメなの?」という声も聞こえてきそうですが、一般に感覚という言葉は受容器から中枢神経に向かう一過性の情報をあらわす言葉であり、脳での処理を受けた後の認知部分までを担う言葉ではないので体性感覚という言葉では表現しきれないという結論になります。
そして、この身体意識には構造と機能、すなわち形と働きがあると考えられています。
体の中で身体意識がとりわけ濃く集まっているところには必ずそれに対応した働きがある、ここに身体意識がこう通っていると、こういう運動や行動、ものの見方、考え方をするということが、一対一で対応していると考えています。
「スーパースター その極意のメカニズム」p18、高岡英夫著、総合法令出版、2001年
この身体意識の構造と機能を「ディレクトシステム」と呼んだり、その構成要素を「ディレクター」と呼んだりします。先程の正中線や丹田、ジンブレイドやベスト、レーザ、リバースなどは構成要素ですので厳密にはディレクターとなるのですが、現段階では身体意識として捉えていただければ良いと思います。
いかがですか? 少しは頭が整理できたでしょうか?
混乱されている方もいらっしゃると思いますので、ここまでの流れをまとめてみます。
言語化・認識の共有化を手がかりにした身体意識の解説まとめ
身体意識やゆる体操を理解するためには、体で実感して理解していくのが正攻法だと私は考えていますが、あえてこの後編では言語化・認識の共有化を手がかりにして、身体意識という言葉を理解することを目的としてきました。
最初は夢がキーワードでした。夢という本当に見ているのか定かではない考え方まで、人間は言語化してきました。言語化されているということは、その言葉が複数の人の間で考え方が共有されていることを示しています。
次にテニスのトス空間を例として空間に対して複数の人の間で考え方が共有されていることを確認しました。
また身体も空間と考えられますので、身体に関係する空間に対する認識が言語化されていても不思議ではありません。その例として正中線や丹田を挙げました。
問題だったのは、体表面や体内に関係していて、かつ言語化されていない意識があるのかどうかでした。
しかし塩田剛三師範の証言のおかげで言語化されていない身体に関係している意識はあるということが確認されました。
率直に言って、高岡英夫師により命名されているベスト、レーザー、リバースなどその他の身体に関係する意識があるかどうかは現時点では確認されていません。しかし塩田剛三師範の証言の重みを考えるとこれらの身体に関係する意識が存在している可能性は否定できないでしょう。
私自身は合気上げのパルトやスティフルクラムを感じた経験があるので、さらに否定できません(笑)
であるとするならば、正中線や丹田、ジンブレイドやレーザー、リバースなどの総称があった方が便利です。その総称として体性感覚的意識、その略称として身体意識という考え方を用いているというわけです。
身体意識はどこまでも身体的!
ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。
少なくとも身体意識という考え方は精神的(スピリチュアル)な言葉というより、どこまでも身体的(もしくは身心的)であることは感じていただけたのではないでしょうか?
身体意識という考え方を毛嫌いしなくても良いかなと考えていただける方が一人でもいらっしゃれば、とても嬉しいです!