型稽古は「ヤラセ」ではない:合気系武術と護身術の真価

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合気系武術や護身術と聞くと、「型稽古なんてヤラセだ」「自由組手こそが強さを証明する」という意見を耳にすることがあります。

しかし、どこに価値を置くかは個人の価値観に左右されて然るべき問題です。

勝敗を決めるストリートファイトやリング上の競技に価値を求める人もいれば、型稽古を通して身体と心を練り上げるところに護身術や武術の本質を感じる人がいても良いのです。

そして私自身は「流派の強さ」を追い求めるよりも、「個人の稽古がどこまで進んでいるか」を重要視しています。

ここでは、合気系武術に対する誤解を解き、型稽古がもたらす真の価値についてお話ししたいと思います。

「ヤラセ」ではない!型稽古に秘められた本当の価値

型稽古を「ヤラセ」と感じる方がいるのは事実です。しかし、護身術を「相手の攻撃から身を守る技術」として考えると、その型の中には攻防の理(ことわり)があります。

例えば、攻撃を仕掛ける側が本気で攻撃する意志も防御する意志も持っていない場合、一見すると動きとしては型が成立しているように見えても、実際には型稽古の意味が薄れてしまいます。理合(りあい)とは、技の理に基づく動きや意図のことで、型稽古においてこの理合を理解し、実際に表現することが重要です。

質の高い型稽古では、単なる動作の反復にとどまらず、攻撃を仕掛ける側がどういう意図で攻撃をし、受ける側がどのように防御するかを深く考え、感じ取ることが求められます。そうした稽古こそが護身術としての本質を体得する道につながります。

合気系武術における「型」の真髄と誤解を解く

一部の合気系武術の流派では、型稽古の形において攻撃側に逃げる自由がないことが多いです。例えば、手首をつかむ攻撃を受ける側が、それにどう対応するかを稽古する型であっても、実際に手首を掴む側が「様子見の動き」や「フェイント」で技をかけると、技が成立しにくい場面も出てきます。

この点が、合気系武術の型稽古と実戦や自由組手との違いを生む原因ともなります。しかし、このような違いがあるからといって型稽古の価値が失われるわけではありません。

型稽古は、どこまでも基礎的な理合を体に染み込ませ、攻防の意識や反応を高めるための手段であり、型稽古によって養われる技術は、ただ乱取りや自由組手だけでは得られない深い意義を持ち得るのです。

このように質の高い護身術の稽古が成り立つためには、攻撃を仕掛ける側と受ける側の双方が、攻撃する意志と防御する意志の両方を持つ必要があります。

技を深める型稽古の意義:攻防の意識と理合を磨く方法

ところが、ある流派では、相手を攻撃する意志や、効果を感じない技に対する抵抗すらも否定するような風潮も見受けられます。

このような環境では、護身術としての理合が薄まるが故に技術の上達が阻まれ、稽古がパフォーマンスとしての技術にとどまってしまいがちです。

ただし、この「相手を傷つけない」「抵抗しない」という理念は、社会的には意義がないわけではありません。むしろ現代社会生活においてはある意味で敵から身を守る護身術より重要な社会的意義がある可能性すらあります。

しかし、練習生が護身術の技術的な上達と、社会的な意義の違いを認識していない場合、技術の向上が停滞してしまう可能性があります。武術としての護身術を学ぶ際には、両者を区別し、適切な意識で稽古に臨むことが大切です。

型稽古が示す護身術の本質と私の武術探究

私自身は、自由組手や格闘技の勝敗を重視も軽視もしているわけではありません。

ただ私自身の稽古としては型稽古の中で身体と技術をどう練り上げていくか、その追求にこそ価値を見出しています。型稽古を通じて磨かれるのは、ただ強くなるだけでなく、理合に従った身体の使い方、心身の調和、そして技の深みです。

型を何年、何十年と探究していくことで、自分の中に技が根付き、武術の本質に近づけると信じています。

まとめ:型稽古の価値を再発見し、護身術の理解を深める

合気系武術や護身術の型稽古は、単なる「ヤラセ」や「パフォーマンス」ではありません。その中にこそ、理合に基づいた技の核心や身体の動かし方が隠されています。

型稽古の中での攻防の意識、そして攻撃と防御の意志を持って稽古に臨むことで、私たちは護身術としての本質に一歩近づくことができるのです。

合気系武術に関心がある方がこの記事を通じて型稽古の重要性を再認識し、より深い武術の探究に挑戦されることを願っています。

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